サンフランシスコクロニクル紙
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「’恐れを知らない’リーは前進する」
G.アレン・ジョンソン 2006年9月17日(日)
ジェット・リーは時差ぼけと戦っている。はためにはそうとは思えないが。カジュアルな黒い服に身を包みスタイリッシュにくつろいでいる、この武術家にして仏教徒である俳優は、高い克己心を見せている。彼がたのんだカプチーノは、彼が哲学について話す間の10分間、まったく手をつけられていない。
「最も力強くてかっこいいことは、相手を倒すことではなく、他者への愛を示すことなんだ。」と彼は語る。
リーは先週、精神的な成長と国の誇りを描いた、中国武術史劇である彼の愛のたまもの「Fearless」のプロモーションのため、香港から直行してきた。これは「HERO」以来の中国語作品であり、1998年の香港映画「ヒットマン」以来の2作目の中国語映画でもある。
しかしリーは、43才になった今でも元気で引き締まって見えるが、これが最後の武術映画だと言っている。武術は彼にとって戦いを抑止することを意味し、四半世紀に渡って彼の生活を支えてきたものである。今回の作品が彼の最後のアクション映画というのではない。彼はジェイソン・ステイサムと共演したROGUEの撮影を終えている。また、最後の中国語映画というわけでもない。ジャッキー・チェンとの長く待たれた共演作が4月から撮影開始の予定である。
しかし、Fearlessが最後の映画だとリーが語るように、この作品で見られるのは、極上のジェット・リーだろう。
彼はこの作品を、もっとも個人的な重要な映画だと言う。これは、武術家として30年以上に渡って培われた彼の哲学と同調している。
「武術が英語に訳されると、マーシャル・アーツになるけれど、中国語からそのまま訳すと、2つの単語、「止める」と「戦争」になるんだ。争いを止める、と解釈してもいい。だから僕は歴史上の武術家の人生を取り上げ、僕自身の信念や今までの人生を映画にこめて、武術家について、単に肉体的な面だけでない、精神的な哲学的な面を語りたかったんだ。」
「誰が自分の敵なのだろう。誰が自分の人生でもっとも危険な敵なんだろう。それは自分自身だと僕は思ってる。僕は自分と戦っている。敵は外にいるのではなくて、自分の中にいる。」
リーは心の内面での変化の時期を迎えているようだ。それは中年の危機というものではない。彼はよく微笑み、熱心に語るし、とても落ち着いていて、リラックスしているように思える。彼は自分の周りの世界に強い関心を持っている。しかし、彼の名声がアジアを越えて世界に広がるにつれて、彼は自然に自らの中国人としての足場を固める方向に向かっているようだ。
リーサル・ウエポン4の悪役でアメリカ映画界に登場する以前に20年間香港スターであったリーは、彼の家族(2度目の妻ニナ・リーと2人の娘達)とともに生まれ故郷の北京に戻った。
帰国の理由には子供達の教育もある。2人の子供を北京のアメリカンスクールに入れているが、そうすることで、中国の伝統的文化の中で育つと同時に、英語の能力も高めるためだ。もう一つの理由は、急速に変化する中国や自らを失いつつある若者達への関心である。このような若者達のために彼はFearlessを作った。彼はこれによって若者を助けるために何かができると考えている。
「僕は仏教の実践と、若者達が人生を理解する手助けをすることに、もっと自分のエネルギーを使いたい。というのも、僕は若者達が自殺することにとても心を痛めている。人が自殺すれば、その人の周りの10人が苦しむ。結果として何百万人もの人が苦しむことになる。」と、2003年には約25万人が中国で自殺した事実を引き合いに出して、彼は語った。
リーは自分自身を中国の大使であり、中国人のよき見本と考えてきた。そのような役割を与えられてきたのだ。11才でニクソン大統領の前で表演し、フォード大統領、カーター大統領の訪中では、歓迎晩餐会に出席した。
彼は、1970年代にアメリカと中国の関係を緩和することになった、いわゆる「ピンポン外交」の一部であった。当時、彼はすで中国の武術チャンピオンであり、8才の時にエリート育成所に入るよう選ばれた、父親のない子供であった。
「おそらく、僕は両国の架け橋となれたんだろうね。」とリーは笑って答えた。「体育学校があって、コーチ達はあちこちへ出かけて子供達をテストしたんだ。バスケットボールに選ばれる子もいたが、武術のコーチが僕を選んだんだ。それで僕は武術を学び、17才になるまで5年間中国チャンピオンだったよ。」
「1973年にブルース・リーが亡くなり、多くのプロデューサー達が彼に次ぐ人材を捜してた。僕が11才のころ、あるプロデューサーが僕の所に来て、俳優になりたいか、って聞いた。僕は、はい、と答えたよ。毎年、そのプロデューサーは僕に会いに来た。僕が成長するのを待っていたんだね!」
それでリーは最初の映画、「少林寺」を1982年に作ることになった。その後全部で3部作となる作品だ。その後彼はツイ・ハークの「ワンスアポンアタイムインチャイナ」シリーズでスーパースターとなる。この画期的な作品や、精武英雄などの優れた作品、そして今回のFearlessは、彼の武術哲学を肉体的にも精神的にも、最もよく表している。
皮肉なことに、彼は、「ロミオマストダイ」「キスオブザドラゴン」「ブラックダイアモンド」や昨年の「ダニー・ザ・ドッグ」というヒット作品で欧米で成功することで、中国の文化大使として元の位置に戻ってきた。
アメリカを憎んでいた男の物語がある。リーが唯一監督した1986年の「ファイナル・ファイター」で、彼はアメリカが、まるで誰の助けも借りずに第二次世界大戦に勝ったように考えていることを非難している。
戦争後に中国に帰ってきた、憤りを抱えた帰還兵の役を演じ、「原爆なんかへでもない!俺の拳を受けて見ろ!」と怒鳴った。
彼は当時のことを笑って、次のように語った。「僕は今とは違ってたんだよ。あの頃中国には、欧米人は手に入れられても中国人には買えないものがあった。コカコーラとかね。でも僕は文化を理解するようになった。2人の娘(先妻との間の子供)がいて、アメリカの高校に行っている。僕は、子供達には将来自由であってほしいと思っている。たぶん僕はそんなことをアメリカ文化から学んだんだろうね。」
そして、アメリカ人は中国文化から何を学べるのだろうか。それはまさに、リー自身が学んだことであり、次世代の中国人やその増大する消費者主義がばなければならないと、彼が思っていることであろう。
「普通人は、幸せになるために物質的なものを必要とする。もっとお金を、とか、もっと大きな家を、とか、より大きなものだ。でも、より大きな家や車を手に入れた時、さらにもっと欲しくなる。欲が深まるからだ。その道を進む限り、終わりはない。」
「仏教思想は、振り返ることであり、自分自身をつきつめること。感じることだよ。これは物質的なものとは違う。心の中から自分を幸せにすることが必要なんだ。」
(原文はこちら)http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/09/17/PKGA2L1DI71.DTL&type=movies
G.アレン・ジョンソン 2006年9月17日(日)
ジェット・リーは時差ぼけと戦っている。はためにはそうとは思えないが。カジュアルな黒い服に身を包みスタイリッシュにくつろいでいる、この武術家にして仏教徒である俳優は、高い克己心を見せている。彼がたのんだカプチーノは、彼が哲学について話す間の10分間、まったく手をつけられていない。
「最も力強くてかっこいいことは、相手を倒すことではなく、他者への愛を示すことなんだ。」と彼は語る。
リーは先週、精神的な成長と国の誇りを描いた、中国武術史劇である彼の愛のたまもの「Fearless」のプロモーションのため、香港から直行してきた。これは「HERO」以来の中国語作品であり、1998年の香港映画「ヒットマン」以来の2作目の中国語映画でもある。
しかしリーは、43才になった今でも元気で引き締まって見えるが、これが最後の武術映画だと言っている。武術は彼にとって戦いを抑止することを意味し、四半世紀に渡って彼の生活を支えてきたものである。今回の作品が彼の最後のアクション映画というのではない。彼はジェイソン・ステイサムと共演したROGUEの撮影を終えている。また、最後の中国語映画というわけでもない。ジャッキー・チェンとの長く待たれた共演作が4月から撮影開始の予定である。
しかし、Fearlessが最後の映画だとリーが語るように、この作品で見られるのは、極上のジェット・リーだろう。
彼はこの作品を、もっとも個人的な重要な映画だと言う。これは、武術家として30年以上に渡って培われた彼の哲学と同調している。
「武術が英語に訳されると、マーシャル・アーツになるけれど、中国語からそのまま訳すと、2つの単語、「止める」と「戦争」になるんだ。争いを止める、と解釈してもいい。だから僕は歴史上の武術家の人生を取り上げ、僕自身の信念や今までの人生を映画にこめて、武術家について、単に肉体的な面だけでない、精神的な哲学的な面を語りたかったんだ。」
「誰が自分の敵なのだろう。誰が自分の人生でもっとも危険な敵なんだろう。それは自分自身だと僕は思ってる。僕は自分と戦っている。敵は外にいるのではなくて、自分の中にいる。」
リーは心の内面での変化の時期を迎えているようだ。それは中年の危機というものではない。彼はよく微笑み、熱心に語るし、とても落ち着いていて、リラックスしているように思える。彼は自分の周りの世界に強い関心を持っている。しかし、彼の名声がアジアを越えて世界に広がるにつれて、彼は自然に自らの中国人としての足場を固める方向に向かっているようだ。
リーサル・ウエポン4の悪役でアメリカ映画界に登場する以前に20年間香港スターであったリーは、彼の家族(2度目の妻ニナ・リーと2人の娘達)とともに生まれ故郷の北京に戻った。
帰国の理由には子供達の教育もある。2人の子供を北京のアメリカンスクールに入れているが、そうすることで、中国の伝統的文化の中で育つと同時に、英語の能力も高めるためだ。もう一つの理由は、急速に変化する中国や自らを失いつつある若者達への関心である。このような若者達のために彼はFearlessを作った。彼はこれによって若者を助けるために何かができると考えている。
「僕は仏教の実践と、若者達が人生を理解する手助けをすることに、もっと自分のエネルギーを使いたい。というのも、僕は若者達が自殺することにとても心を痛めている。人が自殺すれば、その人の周りの10人が苦しむ。結果として何百万人もの人が苦しむことになる。」と、2003年には約25万人が中国で自殺した事実を引き合いに出して、彼は語った。
リーは自分自身を中国の大使であり、中国人のよき見本と考えてきた。そのような役割を与えられてきたのだ。11才でニクソン大統領の前で表演し、フォード大統領、カーター大統領の訪中では、歓迎晩餐会に出席した。
彼は、1970年代にアメリカと中国の関係を緩和することになった、いわゆる「ピンポン外交」の一部であった。当時、彼はすで中国の武術チャンピオンであり、8才の時にエリート育成所に入るよう選ばれた、父親のない子供であった。
「おそらく、僕は両国の架け橋となれたんだろうね。」とリーは笑って答えた。「体育学校があって、コーチ達はあちこちへ出かけて子供達をテストしたんだ。バスケットボールに選ばれる子もいたが、武術のコーチが僕を選んだんだ。それで僕は武術を学び、17才になるまで5年間中国チャンピオンだったよ。」
「1973年にブルース・リーが亡くなり、多くのプロデューサー達が彼に次ぐ人材を捜してた。僕が11才のころ、あるプロデューサーが僕の所に来て、俳優になりたいか、って聞いた。僕は、はい、と答えたよ。毎年、そのプロデューサーは僕に会いに来た。僕が成長するのを待っていたんだね!」
それでリーは最初の映画、「少林寺」を1982年に作ることになった。その後全部で3部作となる作品だ。その後彼はツイ・ハークの「ワンスアポンアタイムインチャイナ」シリーズでスーパースターとなる。この画期的な作品や、精武英雄などの優れた作品、そして今回のFearlessは、彼の武術哲学を肉体的にも精神的にも、最もよく表している。
皮肉なことに、彼は、「ロミオマストダイ」「キスオブザドラゴン」「ブラックダイアモンド」や昨年の「ダニー・ザ・ドッグ」というヒット作品で欧米で成功することで、中国の文化大使として元の位置に戻ってきた。
アメリカを憎んでいた男の物語がある。リーが唯一監督した1986年の「ファイナル・ファイター」で、彼はアメリカが、まるで誰の助けも借りずに第二次世界大戦に勝ったように考えていることを非難している。
戦争後に中国に帰ってきた、憤りを抱えた帰還兵の役を演じ、「原爆なんかへでもない!俺の拳を受けて見ろ!」と怒鳴った。
彼は当時のことを笑って、次のように語った。「僕は今とは違ってたんだよ。あの頃中国には、欧米人は手に入れられても中国人には買えないものがあった。コカコーラとかね。でも僕は文化を理解するようになった。2人の娘(先妻との間の子供)がいて、アメリカの高校に行っている。僕は、子供達には将来自由であってほしいと思っている。たぶん僕はそんなことをアメリカ文化から学んだんだろうね。」
そして、アメリカ人は中国文化から何を学べるのだろうか。それはまさに、リー自身が学んだことであり、次世代の中国人やその増大する消費者主義がばなければならないと、彼が思っていることであろう。
「普通人は、幸せになるために物質的なものを必要とする。もっとお金を、とか、もっと大きな家を、とか、より大きなものだ。でも、より大きな家や車を手に入れた時、さらにもっと欲しくなる。欲が深まるからだ。その道を進む限り、終わりはない。」
「仏教思想は、振り返ることであり、自分自身をつきつめること。感じることだよ。これは物質的なものとは違う。心の中から自分を幸せにすることが必要なんだ。」
(原文はこちら)http://www.sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2006/09/17/PKGA2L1DI71.DTL&type=movies
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