「SHAMBHALASUN」9月号

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※各スポーツ界の著名な選手の肉体と精神の融合をテーマにしたインタビュー記事のようですが完全な個別インタビューではなく、登場する競技者の話がいろいろ交錯しています。また、同じテーマで編集されているため連杰のところだけ読むと寸足らずな印象をうけますのですべて掲載してあります。連杰に関する部分は色を変えてあります。

肉体と精神・・・その極限で

肉体と精神がある瞬間に一つになる時、運動能力はピークに達する。
その体験はほとんど精神的なものだ。ノア・ジョーンズが激しい運動を行う競技者に、彼らの実践についての話を聞いた。

トマス・ハーディは言う。「なぜ人間の精神は、こんなにも不安定な物体である体との緊密で悲しくすばらしい不可解な関係の中に放り込まれたのか。」

この疑問をこのクライマーにぶつけてみるといい。彼の指は、安全な地面と広大な空の間のわずかな割れ目にかろうじて引っかかっている。あるいは、この走り幅跳び選手に聞いてみるといい。彼女は考えられないような距離を跳ぶために、昼夜を問わず練習をしている。

筋肉や腱が、迷路のように重なった循環器系や血管がすべて連動する。しかし、心はどうなのだろう? もし精神が同調しなければ、恐れや疑いが生じる。精神は集中をそらされ、競争に悩み、利害関係にとらわれてしまうだろう。心肉体の妨げとなるのだ。成功するために、競技者はこの不可解な二者の間での休戦交渉をしなければならない。肉体と精神の不調和を終わらせねばならない。

前述のハーディの疑問への回答は次のようなことだろう。このような精神と肉体のせめぎ合いを通して、人間存在の探求は、思索的、抽象的な議論の場から始まり、我々が皆存在している人間という形をした不可避の肉体的領域へと移っていく。肉体は教科書よりも導師よりも能弁だ。英雄物語は無常を語るが、健康の不渡り手形のような教訓は無い。

解放についての説明を読むことは出来るが、26マイルめを越えての勝利は、自由の甘みを私達にもたらす。肉体は我々の教師だ…欲情、痛み、衰え、エクスタシーを通して。その神秘的なサイクルを通して。また、その意志への奇跡的な順応を通して。その意味で肉体は我々のしもべである。我々を死ぬまで運んでいくしもべなのである。

運動選手はスポーツを道として選ぶ。あるものにとってそれは富、名声、またはヘラクレスのような肉体への道である。しかし、物質的な目標を持った者でも、彼らの汗と涙がより深い達成へと続くことに気づくのである。(どれほど深いかは、武術の大家で映画スターであるジェット・リーが大いに語るところであろう。)それでも、内なる達成感に達した者のみが、チャンピオンになるまでがんばり続けられるのである。
記録破りのロッククライマー、クリス・シャーマは、痛みと苦しみに取って代わる、ロッククライミングの喜びを引き出した。彼は自分の時間の多くを、山の斜面に指先だけでぶら下がるのに費やしている。「時には、岩の角をつかんでしまって指に食い込むこともあるよ。」と彼は言う。「でも、踏みとどまるには、もっと強く岩をつかんで歯を食いしばるしかないんだ。ものすごく痛いよ。指に食い込むが、それをさらに握り返すんだ。もう一つの違う次元に行くんだよ。心は飛び立ち、完全に自分がその瞬間に存在するんだ。」

その瞬間競技者は、俗世のこだわりを越えた広がりの中に解き放たれることが多い。「サーフィンがもっとすごい所へ自分を連れて行ってくれる、と考えるのが好きなんだ。」と世界クラスのサーファー、ロブ・マカードは言う。彼は6時間ほどを、時には飲まず食わずで、小さい家ほどある波を乗りこなして過ごす。彼は、天候と心を交わし、仲間のサーファーをに目を配り、波と一体化する途方もない感覚を語る。

無我の境地と一体感、時には「流れ」、「完全に集中して」いる状態とも呼ばれるが、それは並はずれた競技者の体験の共通する特徴である。チームプレーヤーは1つの単位として動き、ペアスケーターは優雅な4本足の生物として現れ、カンフーの達人は自身が剣となる。ロブ・マカードにとって、それは海だ。クリス・シャーマにとっては岩山である。険しく、険しく、荘厳な……ある者は容赦ないとも言う……岩だ。

シャーマは岩山を、容赦ない、とは言わない。「岩山はただそこにあるだけだ。暑かろうと寒かろうと。この世で何が起こっているのかをまったく気にもしていない。岩山は岩山のことだけ考えている。」と彼は言う。そして、彼は彼自身のすべきことをするのである。それはロープ無しに不可能な高度を極めることだ。(もちろん自分の身をつり上げるのに使うのとは違う命綱を時々使うが。)2001年、彼はフランスで、垂直の石灰岩の壁をかつて無いほどの高さまで登る歴史的な偉業を成し遂げた最初のクライマーとなった。登攀は5,15点がつけられ、最高点であった。そしてロッククライミングで一般に受け入れられている10進法の単位を越えてしまった点であった。この偉業によって、彼のこの時の登攀に自ら命名する権利を与えられ、彼は「実現」と名付けた。

シャーマの考え方は新鮮だ。彼は多くの物質的目標を持たず、大成功している数少ない競技者の一人である。実際、これが彼の成功への鍵だと言える……余分なプレッシャーがなく、スポーツは彼の喜びとなっており、その結果、自然な取り組みをしているのである。22歳という未熟な若さの頃でも、彼は、ゴルフコーチのジョセフ・ペアレントの言葉「競技能力は副産物だ。覚醒することが重要だ。」の境地に、自分なりに到達していたようである。

覚醒する前、スタート地点にさえつく前、あるいは深い海に飛び込む前にはもちろん動機がある。競技者がそれでダメになってしまわないのなら、いくらかの物質的な利害関係や少しの恐れを持つことは役に立つ。「何を達成するのかという考えを持たず動機を持つのは難しい。」とシャーマは言う。「目標は障壁を押しのける助けとなる。しかし、頂点に達したとき、今ある姿が大切だ。」

ある瞬間に、40フィートの波が押し寄せてきたり、250ポンドのラインバッカーの視界に自分が捉えられたり、60000人の期待に満ちたファンが見ているとしよう。競技者には技量も要る。厳しいトレーニングを要するものだ。希望も恐れもなく、ただそれをするためだけに何かをするという経験は、競技者を駆り立てるのには十分ではない。24フィート8インチ(ガリーナ・チストヤコヴァが出した記録)を跳ぶ女性には、熱烈な動機が必要だ。しかし、プレッシャーに負けないためには、挑戦が励みになるところへ技量を押し上げながら、中庸であることを維持するべきだ。

Mihaly Csikszentmihalyi(名前が読めません…久代)やスーザン・ジャクソンは競争を「両刃の剣」と呼んでいる。運動選手は競争の困難が高まる中で成長するが、そのプレッシャーに押しつぶされることもある。研究によると、自転車競技の選手はすぐ後ろに迫られたときに最も速く走るが、同時に負けることへの恐れがもっとも大きな精神的障害である。Csikszentmihalyihとジャクソンはこう書いている。「相手に勝ち、上回ることが最優先事項である場合、経験の過程は失われ、集中への道はますます困難をきわめる。」

「もちろん、悲観的なものの見方をするときもあるよ。心配や失敗とかね。でも、こういった見方のほとんどは、他人が自分をどう見るか、から来ているんだ。」とクリス・シャーマは言う。「山に登る動機が純粋な時、運動や自然とつながることの純粋な喜びのために登る時はいつも、前向きな考え方をしているようだよ。」

技量が困難にみあい、意図が結果よりも過程に向いているとき、スポーツは楽しみになる。そして楽しむことは、規律を作り上げる上での重要な一部となる。「何かに登るために1ヶ月がんばり、そしてそれが全て終わる。満足感はそれだけ長くは続かない。」とシャーマは言う。「より困難なものへと自分を駆り立てる気持ちに終わりはない。かっこいいだろ。でも、同時に、徹底的に過程を楽しんでやろうと思ってるんだ。成功しようがしまいが、ね。登攀は何百という技術の上に成り立っている。登攀は実にその動きを行うことと、それと共に存在することに集約される。」

労苦と楽しみは、シャーマにとって、山に登るという行為に融合されるようだ。「登攀を分析するには、どちらの方向へ動くのか、どの手をどこへ持っていくのかを知らなければいけない。精神と肉体が離ればなれになることもある。しかし、自分自身を限界に近づけていくときには、直観的でなければならない。つまり、頭の中で考えるのではまったくないのだ。この直観的な感覚によって、僕は自分のエネルギーを循環し、自分のばかげた考えを一斉に解き放つんだ。この不思議な感覚は、「自分」という感覚が無いときに得られるんだ。」

心と体が調和する時、スポーツはジャズのように感じられる。「心の理想的な状態は、肉体と心が今現在に同調していて、自信があり、焦点化され、流れに乗っている状態だ。」とジョセフ・ペアレントは言う。彼の著書「禅ゴルフ」は、心身の繋がりに焦点を置いている。「難しいのは、ある一連の動きの中でのトレーニングから、より大きな動きの流れに移行し、最終的には、それぞれをどう行うかという自己意識から解放されることだ。」

ペアレントはその概念を、ピアノを習うことに例える。まず最初に音階を学び、それから特定の曲を練習し、最終的により直観的な方法へと進む。「ピアニストは、一つ一つの音階に取り組むことよりもむしろ、曲を演奏することを通して表せる感情や表現に自分の心を合わせていくのだ。」

ペアレントは主にゴルファーのコーチをしているが、彼の考え方は多くのスポーツに適用できる。「競技サーフィンでも自由なサーフィンでも、自分をオートパイロット状態に出来るよ。何にも考えない。ただ反応するんだ。波のエネルギーをもらってね。流れに乗るんだ。自由なサーフィンで、完全に集中できるんだよ。」

では、その集中した、流れに乗った状況にどうやれば達するのか。指に食い込む岩をさらに握り返したり、もう1インチ遠くへ跳ぶために、力と集中をどうやって見つけたらいいのか。無常を理解すること…少なくとも苦痛は永遠に続かないこと…が役に立つ。競技者は自分の精神を、実践的な瞑想法で調整する必要がある。リラクセーションや視覚化、集中だ。オリンピックの走り幅跳び選手のグレース・アップショーは、スタンフォード大学のトラックでの練習にヨガを加え、競技会の前には音楽で精神の集中を高めている。集中し意識するのに必要なものならば何でも。「自分自身を信じさせてくれるものなら何でも聴くのよ。」と彼女は言う。

「運動選手として、心も体も疲れているときはあります。そんなとき私の心は、ジャンプやランニングや筋力トレーニングや、技術的な面を高める活動をもっと求めます。体が与えてくるもの以上に自分が体に要求しないように、私は自分の体の声を聴くようにしています。イライラすることもありますが、競技者として成長するにつれて、このような意識を持つことができたり、それをもとに自分で決断を下せたりすることに、ワクワクしています。」

難しいのは、心を完全にそらしてしまうのではなく、「オーム」というような音節を唱える時にするように、低い、一定のレベルに、明らかな信号を持って合わせることだ。ジェット・リーはこの無の境地を…今までにインタビューした競技者やコーチが様々な形で言及しているが…コンピューターに迷惑メールのフィルターをつけるようなものだと説明した。「雑念は入ってこない。」とリーは言う。

「競っているとき、私はできるだけクリアな心を持とうとしています。そうすることで今自分の目の前の仕事に集中できるの。」とアップショーは言う。「誰と競うのか、誰がスタンドにいるのか、どれほど私は跳びたいのかさえ考えても、今の瞬間から、そして今やるべきことから自分の気持ちがそれてしまうのです。」

ジョセフ・ペアレントは、運動選手に自分たちの習慣や考えを記録することで、思考過程を中立的に自覚することを薦めている。彼は、否定的な考えの1つ1つとともに、茶碗に小石を入れた僧の古い話の中に記されている技術を使っている。ゴルファーがボールを打ったときに悪態をつけば、スコアカードにチェックマークがつく。このマークに良い悪いの判断は無い。ペアレントは、これによって自覚していくと、ゴルファーは悪態をつくというクセを大幅に減らし、ついには完全に消してしまう。「これが私が指導する上で大事にしていることだ…プレーヤーを自意識と外の観察者から解放するのに役立つ。」

自分のあらゆる行動を監視する内なる批評家がいないということは、運動選手が集中して流れに乗る体験をするのに役に立つ。そこから気持ちをそらされる否定的な話がないので、精神が1つの活動に深く関われるチャンスがもっと高くなる。Csikszentmihalyiは、集中し流れに乗った状態に取り組み、肉体的な活動であろうと、ものを書いていようが、チェスをやっていようが、コンピューターのプログラミングをやっていようが、完全な集中をどれくらい体験すると高い高揚感が得られるのかを探求する一連の著作を行った。彼は、このような流れに乗った状態は、宗教的なエクスタシーと一致する時間を超越した自由な感覚を持っている、と報告している。

ジェット・リーは、このような体験の価値に疑問を持っている。武術でプロとしてのピークに登りつめた映画俳優(HERO、ザ・ワン、少林寺)であり武術家である彼は、少年時代の不満に満ちた、厳しい心身の鍛練期間を振り返った。幼い頃から訓練を続け、彼はカンフーと18種類すべての器械をマスターした。剣、槍、刀、斧槍、斧、鉤、さすまた、鞭、鎚矛、ハンマー、かぎ爪、三つ又矛、棍棒、長槍、短棍棒、棒、重し付ハンマー等。彼はすべてのランクから勝ち抜き、国際的な名声を得、対戦相手や、コーチ、観客を彼の妙技でうならせた。この男は飛べるのだ。

だからこそ、彼が今、心と体の自覚に意味が無いと言うことが驚きなのである。彼は、最も理想的な段階では、武術は洗練された自覚やある種の「一体感」を欠くものではない、と言っている。しかし、彼は、その域に限りなく近づいている武術の達人にさえ会ったことはまだなく、それは本質的に欠点がある、と言っている。

リーは、武術をマスターするのに3つの段階がある、と説明する。まず最初は、武器を修得する。それを自分の体の一部にする。「武器を自分の腕のようにコントロールするんだ。」と彼は言う。第2段階は、自分の心を、「戦いが始まる前に、自分の心で敵を止める。」こう言うと、彼の手は、まるで敵の心を自分の手でつかむように動き、その目は心臓がとまるような一瞬、輝いた。

「第3段階では、もう心ですら武器じゃない。武器も心も、なんの意志も無い。敵は自分なんだ。」と彼は言う。この統一感の段階では、敵が攻撃してきても、敵は自らを攻撃しているのにすぎない。「それは陰と陽なんだ。どこにも基準はない。」

彼の声の調子が突然変わり、再びそっけない様子を見せた。「そう考えているんだ。でも、その段階に達した人には今まで会ったことがないね。ひょっとするとそういう人たちは山の中に隠れているのかもしれない。」 彼は、武術の達人になるために必要な訓練は、現在の彼の時間のほとんどを占めている仏教の精神修養の厳しさに備える助けとなったと認めている。ほとんどの時間を占めているといっても、足がしびれてしまわない程度の長い時間だが。

「少林寺で、最初の禅寺で、なぜ少林拳を始めたんだろう。」とリーは聞く。「そんなにも長く座っていたら、その先もっと瞑想するために、体を動かしてストレッチをする必要がでてくるだろう。そのためなんだろう。他の理由じゃないよ。」

「武術を学ぶと、実に厳しい訓練を受けるんだ。そこに6時間ずっと座っていられるようになる。たぶんそれで仏教修行が楽になったんだろうね。だからと言って、幸せだ、とか宇宙を理解した、というのじゃないよ。」彼は武術家は瞑想をするが、それは違う種類の瞑想だと考えている。「それは目標をもった瞑想なんだ。武術は攻撃と防御の概念を持つ。それは未だに二元論的だ。この中の無はどこにあるのだろう。心はどこにあるのだろう。」

リーは、過去数年来の熱心なチベット仏教の信者である。しかし、自分の仏教との繋がりは武術への興味が興るよりも前からのことであると言っている。それは自分の出生よりも前のことである、とも言っている。彼を今の位置に導いたのは業であって、カンフーではない。


ジョセフ・ペアレントとその他の人々…ヴァーモント州でマウンテンバイク場を主催するバーニー・フリンのような…は、そう考えてはいない。彼らは、運動トレーニングを精神修養に結びつける方法はある、と考えている。ペアレントは彼の仏教とシャンバラに基づいたトレーニングテクニックを、「哲学的思想、政治的傾向、宗教性に左右されない」競技者に用いている。それは彼らのスポーツに注ぐ情熱が卓越しているからだ。しかし彼の著書「禅ゴルフ」の名にも関わらず、自分の訓練技術を「瞑想」とは言っていないし、また仏教的な用語も使用していない。「仏教的なものではないよ。僕は競技者に精神について語る…心がどう動くのか、どう体を動かすのか、をね。」

しかし、我々はどのような目的で動く体を求めるのか。「肉体的な訓練をすることは、その他の精神的な自覚を得るのに適した素地を作る。」と言うのはフリンである。「私は本屋を経営しています。だからなぜ戦かう必要があるんです?でも、心と体を結びつけ、自信を持ちエネルギーに溢れるなら、私はもっと効果的に生計を立てることができるでしょうね。」

死に対する恐れは、差し迫った死への大きな恐れやごくわずかな死への恐れであれ、人を精神的な探求へと駆り立てるもっとも近道であるが、この無常の器(肉体)を肉体的限界にまで追い込むことは、死の次に人を駆り立てるものだ。進化した運動選手にとって、スポーツは目的ではなく道なのだ。

「僕はロッククライミングをスポーツだとはあまり思ってないんだ。それは僕にとって毎日の実践なんだ。クライミングはすごいよ、でも登ることから何かを引き出し、それを僕のこれからの人生に活かすことができればすばらしいと思うよ。」とクリス・シャーマは言う。

ウォルト・ホイットマンが肉体的刺激を礼賛する時、彼は、自然界の出来事や過程は魂の秘密を教えてくれると信じている自然主義者達と調和していた。彼の伝説的な詩の一節に、次のようなものがある。

肉体を衰えさせる者達は自分自身をおおい隠すのは疑いない

あなたの中の薄い赤いゼラチン質、骨格の中の骨と髄、健康のすばらしい実現

ああ、私は言う、これらは体の一部や詩ではなく、まさに魂の一部であり詩なのだ

我々人間は必ず肉体を持ち、その中で死ぬ。我々は鳥やイルカのような、ただ肉体の中に存在し、その肉体を本能の命じるままに使用する動物とは違う。我々には選択という贅沢(あるいは宿命か)がある。肉体を無視し、その「薄い赤いゼラチン質」をぶよぶよのゼリーに変えてしまうならば、我々の心もたるんでしまう。覚醒、それは人生のあらゆる面に適用できるものだが、どれほどたるんだ生活をしているか、に左右されてしまう。完全な精神のプロフェッショナルであるチェスの名人達は、トレーニングの一環として、肉体的なスポーツに真剣に取り組んでいることで知られている。カスパロフはサッカーをし、カルポフとスパスキーはテニスだ。ペトロシアンとコルチノイは卓球をする。「流れにのること」に関する著者達は、「精神的な安定は肉体器官全体を巻き込むことなのだ。明確な注目を与えなければ、精神は個人的な問題に向かっていく。何もすることがないと、心は焦点を失い、私達は憂鬱になるのだ。」と書いている。

しかし、ジェット・リーはこのような相対的な努力には関心がない。「武術の学習から人はいったい何を得ようとするのだろう?」と彼は尋ねる。「それが人を倒すことならば、やめた方がいい。何か他の方法を使った方がいい。大昔には、それは有効だったかもしれない。今は銃があるからね。ならば何故武術を学ぶのだろう?長生きするため?自分が何か特別な存在だと信じるためなのだろうか?」彼の目には、その信じられないような武術の技術は、彼の真の情熱、つまり徳を伝えるのに共有したり利用できなければ価値がないのだ。彼は言う。「真に解放される唯一の方法は、他人を気遣い、愛情や慈悲を与えることだ。」