2007年5月20日 親への愛

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第一に感謝の気持ちが向かうのは、僕の親です。
何故かは分かりませんが、僕の両親によってこの世に生まれてきたことを幸運なことだと思っています。
僕の父は、僕がわずか2才の頃、仕事中に亡くなったので、ほとんど父のことは覚えていません。
子供の頃の思い出のほとんどは、たいへんな苦労をして僕たち兄弟姉妹を育てた母の思い出です。
兄が2人、姉が2人で、僕は末っ子です。
今でも子 供の頃の断片的な思い出があります。

時々、午後2時から午後10時まで、働いている母のところにいることがありました。
ある夜、家に帰る途中、土砂降りの雨が降っていました。
雨があまりにも激しくて母は僕を背負わなければなりませんでした。僕たちは当時とても貧しくて、傘がありませんでした。
それで母は、小さいビニールシートを見つけ、僕を背負いながら、そのビニールシートで雨を防いでいました。
雨の中を歩くその時 の母と僕というイメージが、心に深く焼き付いています。

子供の頃、僕たちは本当に貧しかったのです。
母は祖父母をはじめ、5人の子供の面倒をみなければなりませんでした。
多分、僕は良い子だったのでしょう。
なぜならば、何をするにしてもそれはいつも、一人で家族を養うという重荷を背負う母を助けることができるように、という気持ちからだったからです。
母は僕を愛するあまり、人生の様々な事柄から僕は遠ざけられることがよくありました。
近所の子供達はみな自転車に乗っていましたが、母は僕には許してくれませんでした。
子供達はみな 泳げましたが、僕の母は絶対に泳ぎを習わせてくれませんでした。
そんなわけで、武術学校に通い始めた頃、級友達は何でもできましたが、僕は訓練することしか知らなかったようです。
おそらく、これも母親が子供を守る一つの手段なのでしょう。

武術学校では週6日間寮で過ごし、土曜の夕方から1日だけ帰宅が許されます。
母の仕事が休みにな るのは毎週水曜日でした。
規則違反でしたが、母は学校の僕によくごちそうを持って会いに来ました 。
当時僕はとても複雑な思いがしたものです。
うれしくてワクワクするときもあれば、恥ずかしくて 心の中で母を非難することもありました。
でも何十年も経ち、母はいつも彼女なりの方法で僕たち子供を愛してくれていたのだと、やっと分かりました。
幼い頃にはそれが分からなかったのです。
自分の子供を持つまでは、母の偉大さが分かりませんでした。
母が行ったことはすべて、子供を養うためだったのです。
僕たちが何か間違ったことをしても、母は必ず僕たちを受け入れてくれました。

僕はいつも女性に深い尊敬の念を抱いています。
「母なる大地」という言葉をよく聞きます。
母親は 本当に大地のようです。
そこで木を植えて育てるのです。植え方が良かろうが悪かろうが、母親は不満を言わず、常に子供のためにどんな時もそこにいるのです。
だから2つの内緒の願い事をしたことを覚えているのです。
1つ目は12才の時で、中国チャンピオンになった時のことです。
僕は心の中 で唱えました。
「お母さん、やったよ!お父さんはいないけど、僕を誇りに思ってほしい。」と。

2度目は2000年のことです。
フランスで仕事をしているとき、姉が電話で、母の病状が重いこと を知らせてきました。
姉に、なぜすぐに電話をしなかったんだと聞くと、姉はこう言いました。
「お母さんが、あなたは子供の頃から死んだ人を見るのを怖がる子だったから、帰ってこいとは言わない ように、と言ってたからよ。」と。
僕はもう大人です。しかし母にとって、子供はいつまでも子供です。
子供の頃、白雪姫の漫画を読んでいると、恐ろしい邪悪な魔女が出てきました。
僕はとてもこわくなって姉に泣きつき、まだ仕事をしている母のところに連れて行ってくれと頼みました。
子供の頃 僕は色んなものを怖がったので、母は、僕が死んだ人を怖がるのだとずっと思いこんでいたのでしょう。

母が亡くなる前、母はこのことを思いだし、自分が病気であることを僕に言わないようにと姉に言ったのでしょう。
人生の終焉を迎えた母に僕が何もできないのは分かっていました。
ただ一つできたのは、お経のテープを流し、慈悲の祈りを何度も何度も捧げることだけでした。
母の傍らに立っている間中、お経を流し、僕はお経を唱え、母がすばらしい来世を迎えるようにと祈っていました。

母はいつも僕の子供達を気にかけていました。
90年代、どれほどお金を母にあげても、家を買ってあげても、彼女は孫達の教育のためにお金を貯めながら、つましく暮らしていました。
おそらくそれは、母がなんとかやりくりをしなければならない生活の中で身に付いた習慣なのでしょう。
子供達を育てるために再婚の話しもあったのですが、母は古い価値観で育てられており、再婚が子供達に及ぼす影響を心配していました。
それで、母は一人で僕たちを育てることにしたのです。

チベットの学校、病院、お寺に初めて寄付をしたときのことを覚えています。
近所の人が、
「なぜ知らない人に寄付なんかするんだい。自分の子供にあげた方がいいじゃないかい。」
と聞きました。僕の母も同じ事を聞きました。僕はこう答えました。
「僕はお母さんの子供だよ。お母さんが僕をこの世に生んだのは、僕が自分の子供の面倒をみるためだけじゃないよ。」
二度目に寄付をしたときは、 母は何も言いませんでした。彼女は僕に微笑んだだけでした。

母は亡くなる前、いつまでも色々と心配していました。
僕に出来たのは、母に約束することだけです 。
「僕は最善を尽くして兄や姉の面倒をみます。そしてあなたの孫達に教育を施します。お母さんが 安心するように。」と。
でも、お母さんに向かって僕が心の中で言ったのは、
「今 まで僕は家族を援助するのに最善をつくしてきました。そしてこれからは、僕は更に輝いて、もっと多くの人々にもっと多くの幸せをもたらし、救済をもたらす つもりです。お母さんが僕を生んだのは、1つの小さな家 族のためだけではありません。もっと多くの人々のためです。そして、あなたはいなくなるけれど、 僕を育ててくれた恩に報いるために、今日から僕は愛と慈悲を他の人々に与え続けるつもりです。」
ということでした。
僕は母に、
「お母さんがどこにいようと、あなたとお父さんが僕をこの世に生んでくれたことへのお返しに最善を尽くします。」
と言いたかったのです。

自分の親を理解するのに、自分自身が親になるまで待つことはありません。
生きて、学んで、恋して、等々、生活の中で得られる小さな幸せはどんなものでも全て、両親の無条件の愛から発生したものだということがもっと早く分かれば。
そうすれば、両親の愛に報いることは、基本的に人間が必要とすることの1つだと思えるのです。
僕の一番の感謝は親に対するものです。